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旧統一教会問題を考える その2……「僧侶が布施を受けるとは」

令和5年4月記
 宗教の目的は「抜苦与楽(ばっくよらく)」、苦悩を払い生きる喜びを得ることです。
 さて、全ての宗教教団においてその経済的基盤は信者からの喜捨・布施・献金で成り立っています。仏教教団のお寺も、開祖以来現在に至るまで信徒からのお布施で支えられてきました。著名な観光寺院や都市部の不動産業を行っている一部の寺院以外は、葬儀・法事・年中行事でのお布施で宗教活動を行い、伽藍を維持し、住職家族の生活をまかなっています。その布施について、お釈迦様は信者から寄進を受ける者の心構えとして「蜂が花の蜜だけをいただいて、花そのものを損なわないように」 と示されました。献金や献身によって信者の生活が脅かされてはいけないというのです。
 それでは私どもがいただいているお布施と今問題になっている旧統一教会の献金はどんな違いがあるのでしょうか。旧統一教会は信心を強要し、その信心の深さは献金の額によって決まるとしてより過度の献金を信者にあおっていました。仏教でいう布施はお金や物だけでもありません。無財の労働奉仕も他者への親切も立派なお布施と考えます。
 さらに、本来、布施は施主が自らの意志でする喜捨であるべきです。また僧侶への布施を読経という宗教行為の労働対価ととらえるべきではありません。だからこそ真心からのお布施はその多少にかかわらず尊くありがたいのです。
 「貧者の一灯」というお釈迦さまの故事から生まれた言葉があります。昔、インドの王が沢山の灯火を用意してお釈迦さまの説法の会場を明るく照らしました。それを見た一人の貧しい老女が、自分もお釈迦さまに何かしてさしあげたいと思い、お金を工面して一本の灯火を供えます。王の灯火は徐々に消えていきましたが、真心からの老女の灯火はいつまでもお釈迦さまを照し続けたというお話です。
 寺報いづみ掲載の「功徳の施主」でお判りのとおり時に思いも寄らない寄進を受けることがあります。ある方は故人の供養のために、ある方は建物の保全のために、ある方は灯明代に、ある方は故人の遺言だったのでと。またある時はお寺の郵便ポストに差出人名のないのし袋が……施しを下さった一人一人のこころを慮り、その方の願いや想いを共にするとき、僧侶として本当にありがたい仕事をさせていただいていると心から感謝の念が起こります。同時に、自分はこのお布施をいただくのに値する存在なのか、お布施をいただくだけの行いをしているのか、お前の信心は本当なのかと、わが身に問いかけます。そして、今まで以上に、教えを学び、祖師方を尊び、他者に寄り添い、仏の教えを通して「抜苦与楽(ばっくよらく)」の役割を果たしていかなければと強く思います。
 旧統一教会の献金問題は改めて一僧侶としての自らを振り返る機会になりました。檀信徒の皆さんが寺や僧侶をどう見ているのか、どう思っているのか、その想像力の大切さも判りました。忙しい日送りにあっても、時折、これで良いのか、これで良いのかと、自らを省みる機会を持ち続けなければと自戒します。仏教寺院としての自覚と責任のもと、檀信徒の皆さまから「仏教徒でよかった」「私の菩提寺は信頼できる」と言っていただけるようこれからも努めてまいります。



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