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旧統一教会問題を考える その1……「旧統一教会と政治家の関係から見る日本人の宗教観」

令和4年10月記
 今年夏、旧統一教会と政治家の関係が連日ニュースや特集番組に取り上げられました。
霊感商法などの反社会活動や韓国での集団結婚式など特異な活動をしていた旧統一教会、政治のみならず経済・教育・文化・ボランティアの分野まで浸透しているこの集団に、国民の多くが何か得体の知れない不気味さを感じました。
 それにしても、古来の家族制度や反ジェンダーフリーに強くこだわる保守政治家がこぞって協力していたとは驚きでした。昭和40年・50年代に学生時代を過ごした世代は、当時どこの大学にも原理研究会があり熱心に勧誘していた姿を記憶しています。彼らの教義本である原理講論には「日本の軍閥は韓国の教会に神道の神棚を強制的に設置させ、キリスト教の人々を強制的に引っ張り出して日本の神社に参拝させ、これに応じない信徒たちを投獄、殺傷した。……当時の日本はサタンの国だった。」と書かれています。右派政治家の皆さんは反日思想の強い韓国第一主義の旧統一教会となぜに蜜月になったのでしょう。この点は以前から教会を批判する弁護士からも指摘されていましたが、選挙にプラスになるなら思想信条はどうでもいいと思っているのではとさえ思います。
 日本人の多くは宗教を尋ねられ無宗教と答えます。はたして私たちは無宗教なのでしょうか。よく外国人から指摘されることですが、お正月には神社に初詣して一年の安全を祈り、お盆やお彼岸にはお寺やお墓にお参りして先祖の御霊を慰め、年末のクリスマスには家族そろってクリスマスケーキを食べる。外国人にとっては、日本人って一体何なの?なのですね。
 私はいつも、お葬式に故人の冥福を祈りこころから手を合わせるご遺族の姿や、お正月の御祈祷の際、家族の無事を真剣に祈る姿から宗教的といえるような強いパワーを感じます。人はいつかは死ぬことなど人の力ではいかんともなし得ないことがこの世に満ちあふれています。1+1=2になるようにこの世の問題が解決されるわけではありません。思うようにならない現実に悩み苦しみ、ときにはなんとか乗り越え、ときには挫折しそして不条理をも受け入れていく。これが私たちの現実です。そんななかでの祈りや希望そしてささやかな喜び、日々の営みのなかで私たちは意識せずに人智を越えたものを感じながら生活しているのではないでしょうか。これこそが日本人特有の信仰心なのではと思います。
先の政治家の多くが自己の内面としっかり向き合い自分の良心に従って行動していればこんなことにはならなかったのではないでしょうか。宗教をあえて意識から遠ざけ、あるいは私は無宗教と軽く流して政治活動していた結果が旧統一教会との縁を生じさせたと思うのです。「靖国神社をみんなで参拝する国会議員の会」というものがありますが、戦死者に深い崇敬の念を持っているならば、なにも徒党を組んでお参りしなくても良いのです。みんなで渡れば怖くないとばかりにお参りしても英霊は喜びません。自分自身の内心からお参りしたいのであるなら一人でお参りすれば良いのです。マスコミに事前に通知しカメラの中を参拝するなどあってはならないのです。宗教心は個人の内面的価値に関わるものです。政治家も真摯に自分自身の内面に向かいあってもらいたいものです。
 戦前の大日本帝国憲法下で信教の自由は一応認められていました。しかし神社は宗教にあらずとして国家神道が国体の中心におかれ、祭祀と教義と政治は一体とされ、「神国日本は負けるはずがない」とあの忌まわしい戦争に突入していきます。ご承知の通り大変な犠牲を払い終戦を迎えました。戦後、国家からの神道の分離と公立学校教育からの神道の排除がはかられました。現行の「信教の自由」「国や公立学校での政教分離」はその反省から生まれたものです。戦後も遠くに去り豊かな平和を謳歌する今、あの沢山の血を代償にして勝ち得た内面(思想、良心、信教)の自由の尊さを忘れ、いつしか宗教を語らなくなってしまいました。いや宗教を語ることが知識人から極力避けられているともいえます。
 多くの日本人にとって、いまでも宗教は「イワシの頭も信心から」の領域なのかもしれません。学校教育で宗教的なものを語ることがタブー視され、今、宗教に無垢の若者がほとんどです。教育の分野での政教分離とは、特定の宗教(宗派)の教えや儀式を具体的に教えることはできないことです。富山県のある中学校でのこと、給食の時間みんなで手を合わせ「いただきます」と言って食べている姿を見た方から新聞に投書がありました。合掌は仏教の礼拝形式で宗教教育に当たるのではないかというのです。なんと県議会にも取り上げられ、議論の末異論がある以上やめた方が良いということになりました。もっとおおらかに宗教を学ぶことができないのでしょうか。学びのない中では宗教の真偽を判断する力も身につきません。優秀な若者が疑いもなく入会していった過去のオウム真理教を考えると、正しい宗教教育の必要性を感じます。
 宗教教育とは①特定の宗教を教える「宗派教育」、②学校の歴史や国語・芸術で学ぶ「宗教知識教育」、③特定の宗派に限定しないで「人間の力を越えたものへの畏敬の念」を教える「宗教情操教育」、④反社会的カルトや霊感商法への免疫力をつけ、オカルトや超能力を疑う科学的態度を育てる「対宗教安全教育」、⑤多様化する国際社会のなか異文化や異宗教を差別しないこころを育てる「宗教的寛容教育」の5つがあるとされます。公立学校では①の特定の宗教を教えることはできませんが、仏教系・キリスト教系などの私立学校では入学式はその礼拝儀式で行いますし、祖師方の教えを学び、また坐禅やお祈りをしても問題はありません。
 多くのヨーロッパの国々では公教育で学年ごとに主にキリスト教を学びます。多民族が共生している国々ですので宗教に関心がなかったり他の宗教を信じている生徒もいるため宗教の時間は選択制がほとんどです。最近は特に④対宗教安全教育が重要視されています。「カルトの世界的な穴場」と言われ旧統一教会を通して海外に何千億円という資金が流れている日本に対し、ヨーロッパの人々の宗教の真偽を判断しようとする目は厳しいものがあります。フランスの反セクト法は、海外で起こったオウム事件などのカルト被害に衝撃を受け国会の調査委員会が主導して制定されました。EU議会によるカルト決議も、宗教を正しく理解していこうとする強い意志と、宗教に対する深い敬意の土壌から生まれたものです。  
 カルト宗教につきものの霊感商法とは、霊魂観念を悪用して多額の献金をさせる悪徳商法です。交通事故に遭った、ガンが手遅れになった、火事で全焼した……思いもよらない不幸にあうこともあります。こんな時、「なぜ、私ばかりが」と自分の不幸を呪います。そんなとき「誰々の供養が足りないのではないの」「霊が成仏していない」と思いも寄らないことを言われると「そうか」となるのです。旧統一教会の供養は何百世代前の先祖供養まで要求していたとか。
 お釈迦さまは苦しみの根源は自分への執着にあるとしました。これを煩悩といいます。とらわれを離れ、無心になり、まっさらな目で物事をとらえる大切さを教えています。過去を思うな、未来を願うな、今が大事、とも禅は教えます。水子の因縁、病気の因縁、財運衰えの因縁、色情因縁……等々不安をあおる新聞折り込みなどに惑わされないようにしたいものです。悪霊などは存在しません。供養とは死者への感謝の表現です。宗教に対しの正しい知識を身につけ、それぞれの信仰を深めていきたいものです。

 追記 私は地方国立大で電気工学を専攻し高校工業の教諭免許を取得しました。当時は取得にあたり必須科目として「宗教学」が指定されていました。工業の免許になぜ宗教学がと不思議の思った記憶があります。その後調べてみると、昭和24年「社会科その他、初等および中等教育における宗教の取扱について」の文部次官通達の元になった前年の教育刷新委員会建議で「教員養成機関の学科目に宗教学を加えて、宗教に対する基礎的知識と一般的理解を深めること」が提言されていました。宗教教育に対する国の姿勢が当時の方が積極的だったことが判ります。



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