歴史

 永享8年(1436年)この地を治める三芦城主石川持光公は父の菩提を弔うため、相模国大雄山最乗寺から即庵宗覚和尚さまを招き高源山長泉寺を開創しました。
その後、歴代住職は数多くの末寺を開き、長泉寺を中心とした即庵派は大いに栄えます。
天正18年(1590年)太閤秀吉の奥州仕置により、石川昭光公は全所領を没収され、甥の伊達政宗を頼り家臣団と共にこの地を後にしました。庇護者を失った当山の護持は困窮を極めたと思われます。しかし残った家臣や地域の住民の支えにより法灯が守られました。
それから160年後の江戸中頃、二十二世東林寂照和尚さまにより再興され、長泉寺は再び曹洞宗の歴史に現れます。東林寂照和尚さまは最乗寺の住職もされ、在任中に参道周辺に大規模な植林をしたことが最乗寺の記録に残っています。
文政4年(1821年)火災により長泉寺の伽藍は全て燃えてしまいました。現在の本堂、庫裏は安政4年(1857年)に再建されたものです。
明治の時代になり両大本山から曹洞宗では格式の高い寺として認められました。(永平寺より随意会、総持寺からは片法幡会)
当地方は地元有志により自由民権運動が激しく展開された歴史もあります、長泉寺は度々その演説会場になりました。明治25年1月、自由党党主板垣退助の演説会には千名以上の聴衆が集まったとの新聞記事が残ります。
大正11年本堂茅葺き屋根を銅板に葺き替え、昭和13年庫裏は瓦屋根に、昭和59年本堂大改修、聯芳堂の改築、平成に入って駐車場及び檀信徒会館が整備され現在に至っています。