1. Home
  2. /
  3. 住職エッセイ
  4. /
  5. 山の記録 憧れのモンブランへ

山の記録 憧れのモンブランへ

 人の良さそうな女将さんに見送られホテルを出たのは、まだ夜の明けきらない旱朝だった。 真夏というのに吐く息は白い。シャモニーの街はまだ狭く深い谷底に眠りについたままだ。周りの高い山々にさえぎられ、街に朝揚が当たるのは、いつも九時過ぎになる。そんな気候に左右されてか、土地の人の朝は遅く、街を歩いている人は誰もいない。
 家々の屋根のずっと上には、遅い朝陽に当たって項上だけが真っ赤に燃えたモンブランが見える。モンブランとはフランス語で白い山。一年中白い雪がかぶっているので、そんな名前がつけられた。4,807メートル。山容はどっしりしていて、見るからにアルプスの盟主だ。
 10年来憧れていた本場アルプスに足を踏み入れたのは一昨日のこと。昨日はエギュドミデイへロープウェイを利用して登った。目的は高度順化。大概の日本人は3,800メートルから4,000メートルで最初の高度障害(高山病)の洗礼を受ける。モンプランはそれより1,000メートル高い。人によっては順応できず登頂できない者もいる。
 シャモニー発1番バスは我々だけ。シャモニーの谷を20分程下り、エッセルからロープウェイに乗り換える。ベルビューという小高原に着いた。冬はスキー場になるのだろう。なだらかな牧草地のあちこちでは、カウベルを首にぶら下げた牛がガランガランと音を響かせながら草を食んでいる。そこからアブト式の登山電車に乗り30分程で終点ニーデーグル(2,386メートル)。駅といっても改扎口だけの小さな小屋である。シャモニーの谷から高度差1,400メートルを步かず登ったことになる。しかし項上まではあと2,500メートル。観光客の多くはここまでで、ここからは登山者だけの世界だ。
 目前にビオナゼー氷河の舌端が見える。時折、氷塊が轟音と共に白煙を上げて崩壊する。ここからはテートルース小屋(3,167メートル)まで岩のゴロゴロした長い道。途中、簡単な昼食をとった以外は休みなく歩く。
 アルプスでもマッターホルンとともに人気の高い山だけに登山者は多い。フランス人、ドイツ人、イタリア人、イギリス人、みな同じ顏立ちに見えて、言葉を聞かないとどこの国か見当が付かない。我々を中国人とみて「チャイニーズ」と話しかけてくる。その度ごとに「ジャパニーズ」と返す。服装もまちまちだ。完全冬山装備で歩いている者、上半身裸で下は下着のパンツのひげもじゃの男ありと、一様にニッカホースにカッターシャツの日本と対照的だ。
 テートルース小屋を過ぎると長い岩稜の登りとなった。日本アルプスなら涸沢から登る北穂の東陵位の急坂で、距離はその2倍ほど。こちらの山男は、身体に似会わず根性不足か所々であごを出している。そんな登山者を横目に見て快調に追い拔く。
 急なガラバをトラバースする所に出た。斜面が不安定らしくこぶし大から4、5センチの岩がうなりをあげて落ちてくる。念のためヘルメットをかぶり落石に注意しながら一人ずつ横切る。対岸に着いたときには脇の下に冷や汗をかいていた。
 岩場を登きったところが宿泊予定のグーテ小屋(3,817メートル)。日本と違い驚くほど立派だ。外壁はジュラルミンの壁、内壁は木目が美しい全面板張り。フランス山岳会が所有し、一般登山者に開放している。チェックインを済ませ、ゴ厶の大きな靴に履き替えホールに入る。30人程の先客が三々五々歓談している。我々もその中に入れてもらい一息ついていると、どこからかと話しかけてきた。手振り身振りにわか仕込みの英語で応対。先ほど通過してきた岩場のトラバースで落石に当たり重傷を負った男がいたとの話をされる。
 周りを見ると、みな瓶に入った無色透明な飲料水を飲んでいる。尋ねてみると「ドバー」というらしい。指で指して注丈する。なんと味のない炭酸水で、半分以上残してしまう。
 夕食はコンソメスープ、ローストチキン、炒めた野菜、フランスパン、デザートはプリン、ボリュー厶のあるフルコースの夕食だった。1泊2食120フラン、日本円で3,600円。日本の山小屋と比べ実に内容が良い。
 夕方になって頭痛と共に熱も出てきた。ここは富士山の項上より高い。そうか、これが高度障害なんだと一人で納得。しかし初めての経験で対処の仕方が分からない。ガイドのW氏に相談すると、水を飲めという。さっき炭酸水を飲んでいたのは、その対策だったんだなと気がつくが後の祭りである。ほうほうの体でベットに転がり込む。意識して水分をとるが、頭痛はいっこうに良くならない。ベットのスプリングが背中に当たりゴリゴリ痛い。日本の山小屋は湿っぽいせんべい布団だが、こちらはスプリング入りのマット。一日の疲れのためか、いつの間にか眠ってしまっていた。明日は2時起洙、3時出発、晴天を願う。
 目を覚まし外を見ると猛吹雪。10メートル先も見えない白魔の世界である。これじゃ一歩も進めない。よしもう一度寢よう。
 6時起床。まだ吹雪いているが、風は少し弱くなっている。時折東の空の雲が切れて青空が顏を出す。「7時出発。急いで準備」W氏の言葦で食堂に直行する。天気待ちの登山者みな食堂に殺到したのだから、その喧騒たるやものすごい。朝食はフランスパンと直径15センチの大きなアルミの器に入ったコーヒーだけ。まだ頭痛があって食事は進まない。
 食事のあとは外のトイレへ。登山者の多さに比べトイレは大が2つだけで、登山者が列をなして待っている。風雪の中で待つこと15分、ようやく順番が来て中に入るがまたもびっくり。急崖に棚を作って板を渡し、その隙間から真下に排泄物を落とすようになっていた。周りの板固いも隙間だらけで、雪が吹き込んでくるぐらいだから、使用後の紙は下に落ちず、風の具合ではひらひら舞い上がってくる。なんとか用を足し終わったのは7時近くなっていた。
 目出帽、ゴーグル、ダブルヤッケ、ピッケル、アイゼンの完全冬山装儀で出発。ここから山項までは岩場はなく雪稜だけだ。ガイドのW氏をトップに、ザイルを結びあったまま雪の斜面を登り始めた。新雪は20センチ程か。風雪が絶えず横殴りにたたきつける。氷片がピシピシと顔に当たり痛い。
 W氏は休みなしに歩きドームドグーテ(4,304メートル)も素通りである。うらやましいほど身軽に登っていく。私の方は頭痛が益々ひどくなってきた。血管が裂けるような鼓動がする。頑張れ。W氏から伸ばされたザイルはピンと張られっぱなしだ。
 グーテ小屋を発ってから3時間、バロの避難小屋(4,362メートル)に着いた。風に飛ばされないようザックをデボし、カメラだけも持ってさらに登り続ける。ここから頂上まで西側が切れ落ちたナイフエッジの雪と氷の稜線だ。落ちたら助からない。その幅40センチだから下山してくる登山者とすれ違う時は緊張する。日本アルプスでも、冬の一般ルートでこれだけ長く狭い雪稜の続くコースは少ないらしい。モンブランは大きな山だ。寒さのため鼻水が無性に出、それが風に飛ばされ顔全体に凍り付いて口がきけない。
 午前11時、目印の竹の棒がたつドー厶状の項上(4,807メートル)に到着。霧と雪のために遠望は全くきかない。そのため項上に立ったという特別の感慨もわかない。マッターホルンもモンテローザもアイガーも全て霧の中。W氏は「こんな天気に長居は無用」と記念写真を撮ってすぐ下山しようという。
 登りは気がつかなかったが、傾斜がかなり強いのに驚く。気温が上昇し雪が緩んでアイゼンに付き、団子になってとても歩きづらい。ピッケルでアイゼンの雪をたたき落としながら步く。「俺が落ちたら、おまえは反対側に身を投げろ。ザイルがお互い引っ張り合うから止まるはずだ」そのうちグーテ屋着。
 吹雪は小雪になり、東方にエギュドミディの針峰群が初めて眺められる。お天気も回復してきた。今日中に下山することに決め、ボツン米河を下りるコースを変更し、昨日と同じグーテ山稜を下りる。ニーデーグル最終電車17時発。あと3時間しかない。よし急ごう。岩稜の急斜面を快調に下りていく。
 テートルースの小屋を過ぎる頃から足が前に進まなくなってくる。今日の行程はグーテ小屋から山項まで標高差1,000メートル登り、そこからニーデーグルの駅まで標高差2,500メートル下る長丁場である。上高地から奥穂高往復は2泊3日が通常なので、こんな長いコースは日本にない。W氏に電車の切符を頼み先に行ってもらう。
 ようやく駅に着いたのが4時40分。もう步かなくていい。ザックからビールを取り出し乾杯。頭痛も消えていてその喉ごしが良いことこの上ない。
 今回、念願のモンブラン登項を果たして感じたことだが、案内書に書かれているほど楽な山旅ではなかった。真夏の猛吹雪は勿論のこと。氷河歩きの経験のない日本人にとって、一般コースといえども本場アルプスの登山には現地ガイドが不可欠である。グーテのコルでガスにまかれ命を落としたガイドも数多いと聞いた。気温の上昇でクレパスが多くでき、その上に新雪がかぶったのを知らず歩いて転落したり、雪崩や落石で遭難死した者が今夏のモンブラン山域で40人を越えたと後日知った。日本の山では想像できない山の巖しさである。
 シャモニーのホテルに着いたのは夜になっていた。あのふくよかな女将さんが無事に登頂できたことを喜び祝福してくれた。その夜は高山病の苦しみもなく、ぐっすり眠れたのは勿論である。あくる朝は雲一つない快晴だった。モンプランの峰々は新雪がまとい一段と光り輝いていた。そのとき初めて私の胸に登項の喜びがひしひしと湧き上がってきた。 
登頂日 1983年8月23日



新しい記事歴史境内散策行事教化活動開かれたお寺をめざして永代供養墓住職エッセイweb法話