はじめに
昨年(1986年)の10月中旬より20日間、福島県青年海外派遣事業「若人の翼」の団員として、南米諸国を歴訪する機会を得た。
昨年度の若人の翼は、従来の欧州2コース(東西ベルリン、西ドイツ、イギリスと東西ベルリン、ハンガリー、フランス、各15日間)、南米コース(20日間)に、国際青年年を記念して中国コース(12日間)、韓国、マレーシアコース(12日間)の2コースが加わり全4コース、総勢100名の派遣である。
われわれ南米コースは、県職員研修所長の佐久間さんが団長、副団長はいわき行政事務所次長の星さん、団員は13名で保母、替察官、役場職員、市会議員、農業、会社経営そして私のような僧侶と職業もまちまちである。添乗員を含めて16名、全コース中最も少人数で家族的な雰囲気で研修を進めることができた。
訪問国は経由国のアメリカを含めてブラジル、パラグアイ、アルゼンチンの4ケ国である。これらの国々は明治以降、多くの日本人が移住した国々である。そのため研修内容も地元民との交歓、各地の視察など日系人に関係することがほとんどであった。従って見聞することは、接することができた日系社会を通してのことであり、訪問国の全体像を把えるには一面的すぎるとの誹りをまぬがれない。その点を御了承いただき20日間の研修での印象を述べてみたい。またパラグアイ、アルゼンチンは他の機会にゆずり、最重点訪問国であるブラジルのみについて記したい。
広大な大地と豊かな自然
私たちの最初の驚きは、あまりにも雄大な自然との出会いであった。
ブラジルの面積は日本の23倍、その広大な土地にほぼ同じ人口、1億3000万の人々が住んでいる。リオデジャネイロから最初の民泊地であるベレンへの3千キロ、5時間の空の旅で、ブラジルの国土の広さをいやでも思い知らされた。機窓から見渡す限り緑の絨鍛が続いたかと思ぅと、赤茶色の半砂模地帯がえんえんと広がる。
アマゾン川の河口の幅は東京から名古屋の距離に相当し、その中にある三角洲の島、マラジョー島は九州に匹敵する大きさである。私たち日本人の感覚では把えられないスケールの大きさだ。
ベレンはほぼ赤道直下、アマゾンのジャングルに囲まれた人口120万、パラナ州の州都である。昔からアマゾニア地方の農水産物の集積地として栄え、現在でもマナウスと並ぶ産業の中心地である。永大産業、日冷、三井物産など日系企業も数多く進出している。
市内の通りは高さ20米もあるマンゴーの並木が続き木影のベンチでは人々が三々五々に休んでいる。木影に入ると、摂氏35度の酷暑にもかかわらず意外と涼しくしのぎやすい。
ベレンの名物は朝のフェイラ(市場)である。夜明け前から畑でできた野菜や果物をトラックで、あるいは担いで港の常設市場へ運ぶ。熱帯雨林気候に属するため、果物、野菜の種類は豊富である。果物はバナナ、スイカ、パパイヤ、パイナップル、マンゴー、その他、日本ではお目にかかれないものがたくさん露店に並べられる。遠慮なく味見しながら品定めできるのも、生産地ゆえのことであろう。野菜もしかり、日本にないものではイノホが印象的であった。葉がアスパラガス、茎がセロリ、サラダやいため物に使うという。
東の水平線から真っ赤な太陽が昇ってくると、大西洋やアマゾン川に漁に出ていた船が一斉に帰ってきて魚の場も開かれる。世界最大の淡水魚ピラルクあり、1メートルもある淡水魚ピライーバあり、日本の魚市場には見られないグロテスクな魚の勢揃いだ。
ベレン滞在のある日、日系子弟との懇談会を兼ねて、観光船でアマゾンのジャングル探検に出かけた。アマゾン川は1kmに4㎜の勾配のきわめてゆったりした流れである。風がないため油を流したように静かだ。船は本流から支流のガマ川をさかのぼり、コンブ島という小さな島に着いた。水際まで里芋のような葉のアニンガが生い茂り、アサイヤシが天をついている。野性のカシューの果実を取り、すすめられるままに果肉にガブリと嚼みつく。現地の人はたいへんおいしいというが、渋味があり、どうもいただけない。酒のツマミのカシューナッツはその種子である。
真っ黒に陽焼けした現地の子供がヤシの木にするすると登り、揺らぐ木の上からヤシの実を落としてくれた。すぐ大きなナイフで上部をカットし、果汁を飲む。青臭いがたいへん甘くおいしい。
密林の中は昼でも暗い。突然の闖入者に驚いたのか、時おりバナナの樹の間から野鳥が奇声をあげて飛び立つ。この大密林は伐採した後の二次林とのこと。髙温多湿のためか、樹木の成長の早さに驚く。アマゾンのジャングルが地球の全酸素の30%を供給しているとのデータもうなずけよう。
世界の食糧倉庫としてのブラジルの農業
ブラジルの農業はもともとヨーロッパ系のプランテーション農業として発展し、ゴム、とうもろこし、コーヒー、さとうきび、綿などが大規模に輸出されていた。古くからブラジル人は肉類を多食し、野菜類は摂らない食生活であった。日系人の定住により、日本の伝統的な集約農法で野菜類が生産され、国民の食生活にも野菜類を多く摂る習慣ができてきたといわれる。
日系人は70万人で、ブラジルの総人口の0.6%に満たない。その日系人による農業生産高を品種別に見てみると、ジャガィモ41%、トマト58%、コーヒー9%、綿花14%、落花生21%、鶏卵44%、茶92%、黒胡椒82%、ハッカ90%という数字が出てくる。まさに日系人がいなかったら、ブラジルの食生活は成り立たないといえよう。
日系のコチア産業組合は、60年前、数人によるジャガイモの共同生産から始まったが、今では組合員13,500人、全国に80の事業所を持つ南米最大の農協に成長した。
これらの日系人の農業生産への貢献は、開拓当時の苦労を忘れては語ることができない。特にアマゾンへの入植は、マラリヤ、アメーバ赤痢、黄熱病など風土病との戦いの中で辛酸を極めた。今でも熱帯での農業ゆえに、年間を通じて発生する害虫や、一夜で一俵ものトウモロコシを運んでしまうサウバ蟻との根気のいる戦いであるという。現在の不動の地位を確立した理由は、日本人持ち前の勤勉さ、辛抱強さ以外の何ものでもなかったろう。
アマゾン地方における日系人の会合で、政府関係者が常に口にする言葉がある。「イギリス人はゴムを盗んで行った。しかし日本人はピメンタとジュートを持って来た」もともとゴムはアマゾン原産で、政府の専売品だった。いつの時期かイギリス人によりその種子が持ち出され、東南アジアで栽培されるようになったため、アマゾンのゴムは衰退の一途を辿った。一方、ピメンタ(胡椒)とジュート(麻)は日系人の努力により、アマゾンに初めて栽培されるようになったものである。二品種の栽培成功は、ゴム景気後の沈滞していたアマゾニア地方の経済を活性化する原動力となったといわれる。これらの作物を根づかせる辛苦は角田房子著「アマゾンの歌」に詳しい。
現在ブラジル高原においてセラード開発が国家を上げて推進されている。セラードとは半砂漠を意味する。過去においてイタリア系、ドイツ系の移民が、その半砂漠を農業生産に適する土地に変えようとしたが、全て失敗に終わった。その後、日系の若者たちが入植し、土壌改良、大規模灌漑施設、植林、品種改良など果敢なる挑戦の結果、大豆、小麦の生産が軌道に乗りつつある。その面積は日本の4倍ともいわれ、世界の食糧問題を救おうという革命的農業である。
視察地の一つにサンパウロ市のセアザ総合卸市場があった。一棟1,400米の建物が幾棟も並んでいる様な圧卷である。一日に取り引きされる農業生産物は8,200トンに及ぶ。東京築地市場のなんと25倍の規模という。世界の食糧倉庫としてのブラジルの豊かさを見る思いであった。
二十一世紀を見越した活力の経済
私はブラジルを訪れるまで、世界的なインフレの国、借金王国などの先入感から、この国に対して漠然とした暗いイメージを抱いていた。しかし実際この目で見たブラジルは一見どこが開発途上国かと思われる程、豊かで活気のある国であった。特に人口1,200万のサンパウロ市は南米最大の商工業都市といわれるだけあって、20階以上の超高層ビルが4千本も林立し、そのあいだを高速道路が縦横に走っている。街の店頭には食糧品はじめ衣類、家具、電化製品が並べられ、中古車センターもいたる所に見られた。
お世話いただいた国際協力事業団(JICA)の幹部のお話しによると、外国債務(1200億ドル)インフレ(年230%)の大きな原因は、巨大プロジェクト事業がめじろおしに実施されているためという。それらを二、三あげると。
イタイプ水力発電事業:パラナ川の水力を利用して黒四ダムの39倍、1,260万キロワットの発電を行なう。ダム建設に使われたコンクリートの量は、400万人の都市の全建設物を建てる量といわれる。
アマゾンアルミ生産事業:アマゾン川支流のトカンチンス川にできた800万キロワットのツクルイ発電所と、流域で発見された高品位ボーキサイトを効率的に結びつけようとするもの。アマゾン川にあるバッハレーナ島の新設工場で年間32万トンのアルミニウムを生産する。勿論、世界一の工場である。
その他、カラジャス製鉄事業、大陸棚海底油田開発、セラード開発など超大型のプロジヱクトが10年先、20年先、いや場合によっては21世紀をにらんで着々と進められている。
ブラジル経済は石油危機が全世界に暗雲をもたらすまで、「ブラジルの奇跡」といわれるほど高度成長が続いた。石油危機の対策にしても、日本が金融引締を行い、通貨の膨張を抑制したのみに対し、ブラジルはどんどん資金注入して電力を開発し、道路を整備し、工場を増設してきた。国土の9割が未開発であり、石油を含め豊富な資源をもつ国ゆえのことである。事業を推し進める政財界の幹部は、これらの世紀的プロジェクトはブラジル一国のためにあるのではなく、地球上の人類すべてのためにあると認識しているようだ。
政府は石油危機を教訓にして、アルコール燃料の製造とその利用を政策の一つに上げている。国内で生産される豊富なさとうきびからアルコールを精製し、それを燃料とするアルコール車を開発しようとしたものである。多年の研究の結果、ガソリン車の性能に近いアルコール車を製造できるようになり、また道路税をガソリン車の半分にするなど政府のアルコール車優遇処置で、今では官公庁車は全て、一般車の7割がアルコール車に代っている。石油の大量消費国日本も見習いたいものだ。
陽気で明るい国民性
国民は世界一の借金国にいながら、思ったより切迫感がなく、陽気で明るい。ブラジル国民は金曜日の夜ともなると気心を知れた友人達をパーティーに招待する。奧さん方はそれぞれ得意の手料理を一皿ずつ持ち寄り、おしゃべりをしながら朝まで楽しくくつろぐ。そんな時に人気のあるカイピリーニャは、さとうきびを原料にした酒ピンガをベースにレモンライムで味をつけたカクテルである。酔いが回ってくるとタンバリン、マラカス、ドラムを持ち出し、にぎやかに打ちならしながらサンパを歌う。ラテン系特有の楽観的な気質によるものもあるだろうが、国の借金についても、アマゾンの一部を売れば借金はすぐ返せるとの思いかも知れない。
政府が決めた最低賃金は月33万クルゼイロ(約7千円)しかしコーヒー一杯30円、ビフテキサンド100円で食べられる国である。食べることだけならば、日本より暮らしやすいと言えよう。
リオやサンパウロのブラジル人は年一回のカーニバルのために働くという。コンテストに優勝するために、サンバ学校で夜遅くまで練習したり、衣裳作りにはカネに糸目をつけないのが、カリオカ(リオ州人)娘というわけだ。カーニバルは約一週間続くが、その間、踊りに自信のある者同志グルーブを作り、衣裳と趣向をこらし、全体を物語風に組み立てて、サンバのリズムに合わせてパレードを行うのである。
私たちもせっかく南米まで来たのだからと、カーニバルの雰囲気を味わうためサンバショーを鑑賞に出向いた。豪華絢爛、色々とりどりの衣裳を身につけ、あるいはトップレスの出立ちの黒人男女がサンバの強烈なリズムと歌に合わせ踊り跳ねる姿はまさに圧倒される。そのうち客席のあちこちから興奮のあまり観客までが立ち上がり踊り出す有様だった。
カーニバルの起源を辿ると、アフリカ大陸から奴隸として売られて来た黒人たちが、故郷を偲んで歌い踊ったのが始まりらしい。物につかれたように熱狂的に踊る彼女たちを見ていると、抑圧された黒人たちの白人に対する怨念の発露とも思われ、華やかな中にも何かもの寂しい思いをしたものだった。
カーニバルとともに国民に人気のあるスポーツは何といってもフッチボール(日本のサッカー)である。海岸の砂浜、ビルの狭間の空地では必ず若者たちが、白球と興じている姿を見た。かつてブラジル人が生んだサッカーの名選手・ペレは彼らの間では英雄的な存在だ。リオのマラカナン球塲は世界最大、21万人収容の巨大サッカー専用球場である。日本の後楽園の四倍といわれるがサッカーにかける市民の思いがわかるようだ。
各地の歓迎会の席では、決まって手作りの日本料理とともにブラジルの伝統料理が出された。シュハスコ……ブラジル流焼肉である。大きな肉の塊を塩やガーリックで味付けし、60センチぐらいの金串に剌し、炭火で焼いて食べる。肉の種類は牛、豚、羊、七面鳥、それにいろいろな腸詰と変化に富む。この焼いたばかりの肉を串剌しのまま持って来て、お客の目の前で切ってくれる。旨いがその量の多さには閉口した。20日間の研修中ほとんど毎食肉料理だったが、その肉は日本のと比べるといささか堅く、それにガーリックのにおいが鼻につき、旅の終りになると喉を通らないほどであった。
ブラジルと聞けば誰もがコーヒーを思い浮かべる。事実、国民はよくコーヒーを飲む。レストランで水は注文して買わなければならないが、コーヒーは食事の後必ず付いてくる。日本のそれと違い、最初にデミタスカッブにたっぷりと砂糖を入れ、その上から濃い苦味の強い炭焼きコーヒーを注ぐ。薄いアメリカンタイプのコーヒーを飲み慣れている日本人には向いていない。
信頼される日系社会
訪問した国々は、どの国も治安情況が決して良いとはいえないが、私たち行きずりの旅行者に対しても、どの国民も意外に親切で、人なつこく、安心して研修することができた。それはなぜだろう。勤勉、努力家、頭が良い、噓をつかないといぅことが、南米での日本人に対する一般的評価になっているからである。それらの不動の信頼感は、今まで多くの日系人が移住国の発展にさまざまな貢献があったればこそと思われる。
南米諸国への日系移民は80年近い歴史をもつ。その間、約20万人が移住し、現地生まれの二世、三世を含めた日系人ロは現在約90万人といわれる。移住国により異なるが、ブラジルの場合、19世紀中頃、奴隸の輪入が禁止されて後、コーヒー農場の労働力が極端に不足した。その労働力の不足をカバーするため移民導入が奨励される。そのため戦前の移住者は、主としてコーヒーに契約労働者として採用された。初期の移住は確かな調査、準備がないまま行なわれたため、農園での待遇、労働条件は奴隸に毛の生えた程度のもので、生活の悲惨さは言語を絶するものがあったという。中には新天地建設の夢破れ、逃げるがごとく帰国した者も多い。
私たちのサンパウロでの最初の公式行事は、イビラプエラ公園にある移住先亡者慰霊碑に参拝し、県関係物故者の供養をすることであった。日本から持参した香をたき、僧侶の立場から私が導師となって読経したが、参列した県人会役員の中には先人の苦労を偲ばれてか涙している方もいた。
今では前述の農業の分野以外にも、商工業経営などに大いに活躍している。その第一の理由は、おしなべて一世が子弟の教育にことさら熱心であったからという。ブラジルにおける最高レベルの大学、サンパウロ州立大の学生の内、日系人の占める割合が16%という数字がそれを物語る。その結果、最近では政界、財界、官界、法曹界への進出がめざましい。現サンパウロ市議会に日系議員が3人もおり、日系大臣が2人もでているとのことだった。これからも日系人の社会的比重はさらに高まることであろう。
しかし日系社会にも新たな問題が生じてきている。それは二世、三世の世代交代の時代に入り、若者に日本的な考え方や道徳観が受け入れられなくなりつつあることである。日伯文化協会で行なわれている日本語、茶道、華道、書道などの日本文化の講座は、どうも若者たちには人気がないらしい。そのため人気のある体育事業を目玉にして参加者を集めているとのこと。
二世、三世の中には日本語を話せない者も多い。結婚観も、日系人同士という一世の考えから、現地人との結婚へと流れが変化している。多民族国家ゆえ当然のことかも知れないが一世の方々にとっては一沬の寂しさを禁じえない。
若者の生の声を聞くために、日系二世、三世との懇談会がサンパウロで催された。彼らは父母の祖国である日本に対し郷愁を持たず、あくまでドライに、ブラジル人として日本人である私たちに話しかけてきた。みな先進工業国としての日本の発展ぶりを感嘆すると同時に、広大な国土を持ち豊かな資源を蔵する自分の生まれたブラジルに、大きな誇りを持っていた。そして未来の資源大国ブラジルが発展するためには、日本の工業技術と資金援助がぜひ必要と熱っぽく語った。自国の将来を真摯に考える二世、三世は新しい時代のブラジルにふさわしい日系人と思えた。地球の裏側で国家建設に燃える同朋のため、日本人の血を同じくする私たちも何かをしたいと思う。
60年ぶりの対面
今回の若人の翼で私が南米コースを希望した動機には、ある日系移民の消息を知ることがあった。その日系移民とは私の大叔父、覚明である。覚明が妻千代と3才の長女美喜子を伴い渡伯したのは、1917年、覚明23才の時であった。以来60年、遠方の地ゆえに次弟に故郷との関係も疎遠となり、ここ数年音信不通の状態が統いていたが、サンパウロ県人会の尽力で長女美喜子の嫁ぎ先が私の民泊家庭となった。美喜子とその夫、静岡県出身の長田喜作氏は私を心から歓待し、在伯西川家関係者の旧情、近情を詳しく話してくれた。知り得た範囲で覚明の一生をご紹介し、日系移民の平均像を浮かび上がらせてみたい。
当時ブラジルへの航海は、南シナ海、インド洋、大西洋と60日もかかった。サントス港上陸設、移民収容所で3日の休養の後、移民監督の独断によりサンタルチア耕地に配耕される。鍬を入れる予定の土地は、畑にはほど遠い石ころだらけの荒野であったという。後悔してもはじまらないと、次の日からコーヒー苗を植える仕事に精を出した。鍬はふり下ろすたびに石にあたって刃がこぼれ、1年ももたなかった。コーヒー豆の収穫の時期には、早朝から夜運くまで畑に出た。実を摘むというより枝の元を握り、思いきりしごいて実を取るため、すぐ手の皮がむけ、ひりひりと痛んだ。1年間の義務年限を終わらぬまま退耕するものもいた。覚明も何度逃げ出そうとしたかわからない。しかし保証人の苦労を思うと踏み止まらざるをえなかった。
1929年、コーヒーの価格が世界的に暴落したため政府は苗の新植を禁止し、生育木を焼却热分にする。
覚明はそれを機にイグアペ植民地に移り、好意的な日本人パトロン(経営者)の土地を借りて綿作りを始めた。五年間懸命に働いて80コントの大金を稼ぎ、景気が良いと噂されていた紅茶園の経営のためにブロックリンパリウスタに出る。しかし時すでに遅く生産過剰になっており、相場を読み取れないまま大損の憂き目に会った。
その後、知人より郊外の菜園を借り、蔬菜を作ってフェイラ(市場)に店を出しながら、8人の子供を育てる。
1940年、今までの農業従事に見切りをつけ、サンパウロ市内に洗濯屋を開業する。農業以外の職業で洗濯屋を選んだ理由は、少ない資本でてっとり早く日銭が入るからだった。持ち前の器用さで人一倍きれいに、他の業者より二日も早く仕上げたため、得意先は多かった。
晩年は職を息子に任せ、孫に囲まれ悠々自適の生活を送る。彼の一番の誇りは、地区の日本人会長を6年間務めたことであつたという。
その覚明が亡くなって今年で満九年となった。子供たちはそれぞれ独立、結婚し、職業はまちまちだが幸福に暮らしている。二世、三世含めてその縁につながる者、45人。その中にはポルトガル人、ドイツ人を妻に迎えたものもいる。誰一人日本へ帰ったものはいない。
海外移民というと石川達三の小説「蒼氓」のイメージからか、なんとなく貧困、苦労、棄民、あきらめといった思いを抱いていた。今回の訪伯を機に、覚明の生きざまを知り、彼の息子、孫たちのくったくのない笑顔に接して思ったことは、人間本来のたくましさであった。彼らが異国の地にしっかり根を下ろしている姿を見て安心すると同時に、西川家ゆかりの者が力強く生きていることを思うと、心から西川の家に生まれて良かったと誇りさえ感じる。
サンパウロ滞在中、私は二人の町内出身者とお話しすることができた。一人は双里、岡部スタンド出身の岡部貞信さんである。奥さんは佐川生コンの出である。現在はサンパウロ市内でガソリンスタンドと自動車の部品販売をしているが、成功者の一人である。わざわざ私の民泊先まで来てくださり、石川町のこと、親戚のことなど時間を忘れて話し込んだ。
もう一人は新田出身の矢内一夫さんである。お父さんの矢内季彦氏にお聞きしていた一夫さんの勤め先、コチア産組訪問の折、お会いできると思っていたが、遠方の農場勤務のため、かわりに電話でお話しをした。咋年女児が生まれ、名前をユカリと付けたとのこと。家族6人皆元気で過ごしているからご心配なく、との季彦氏へのことづけを受けた。町内出身者のご活躍を心から祈念したぃ。
おわりに
20日間の海外研修では、日本と全く異なった風土の中で、異質の文化に接し、多くの人々とのふれあいを体験することができた。
各地の県人会の皆さんからは温かい歓迎を受け、特に民泊を申し出られたご家庭(ベレン:福島市出身の宍戸次男氏、サンパウロ:長田喜作氏、ブエノスアイレス:川俣町出身の森正男氏)には物心両面にわたって親身にお世話いただき、衷心より感謝申し上げたい。
ロマンを秘めて開拓に臨んだ青春の思い出や、苦しかった暮らしなど民泊先でお聞きした一世のお話しは、物質的豊かさと、無意識の安全の中で毎日を過している私に、これからの人生を考える上で多くの示唆を与えてくれた。
二世、三世の若者と忌憚なく意見を交換できたことも大きな収穫であった。国際化する社会の中での青年の役割、日本の若者には少なくなった夢、そんなことを考える機会となった。
そのような意味で、今回の研修は、自分自身を地球の裏側から問い直される旅であったように思える。